坂本龍太朗のワルシャワ通信(7月21日〜7月25日)

7月21日

ポーランド政府から受け入れ家庭への補助は最大120日で終了する。戦争が始まって150日を超え、物価高騰や水光熱費の高騰もあり、補助金がなくなれば受け入れる金銭的余裕がなくなるという家庭が増えるのは当然だ。

避難民にお金があればアパートを借りたり(ただ、契約は通常1年以上から)、または受け入れ家庭に費用を払うことで住み続けることができる可能性もある。お母さんたちに仕事があれば、である。しかし夏休みに入り、子供たちは家にいるわけで、仕事を今まで通りすることもそんなに簡単なことではないという人たちもいる。残った選択肢の1つとして「戦場への帰国」もおのずと出てきてしまうわけだ。

・ポーランドでアパートを借りる場合、普段家電やベッドなどの家具が揃っていない場合が多い。今回の支援はある家庭が引っ越すことになり、アパートに必要な家電(洗濯機)を購入することだった。それなりにしっかりとした家電を揃えるということは、ポーランドへの「避難」が「定住化」していくことを意味する。避難生活支援ではなく、定住化の手伝いをしてしまっていいのかという複雑な気持ちは常に持ち合わせている。
・しかしこの写真が届き、ウクライナの友人たちの笑顔を見たとき、この支援は決して間違っていないと確信した。

7月22日

・先月運搬車両としてウクライナに送ったNISSANが役に立っているという報告が届いた。しかしその写真を見てみると車両があるのは森の中。平坦な土地が広がる東部前線では今までも民間人避難用の車両、人道物資運搬の車両を含め多くの運搬手段がロシア軍の攻撃によって失われてきた。道には不発弾もあれば、爆撃で大きな穴が開き通れないなんていうこともある。安全に前線に物資を届けるためにどうしているのか、その答えの1つがこの写真に現れている。

・支援が回り始めると、それはいつしか私の手を離れていく。私が寝ている時でもこの車両は活躍しているだろうし、私がポーランドに避難しているウクライナのみなさんの支援をしている間にも、ウクライナに送ったパソコンは子ども達を世界とつないでいる。ポーランドに住んでいるウクライナのみなさんが自立していくように、私がウクライナに送っている支援物資も自立していく。
・そう考えるとやはり支援は入れれば入れただけ、自立して多くの命を救うことにつながるのだろう。ウクライナ支援の歯車は今まで何度もロシア軍によって破壊されてきたが、それでもその歯車を回し続け、大きく広く深くしていくことを常に目指して活動を続けたい。

7月23日

・ポーランドに避難してきている人達は主に母と子どもたちというのはよく知られたことだが、その子どもたちのほとんどが「娘」という点も強調しておきたい。もちろん「息子」と来ているお母さんもいるが、圧倒的に娘が多い。結果として私の周りにも娘ばかりだ。「息子」は「娘」よりも強い存在としてウクライナで避難できずにいるおじいちゃんやおばあちゃんの世話をするために残されたりするケースもあるのだろう。また、日本から海外に出るケースの多くが「女性」であることからも分かるように、「女の子」なら海外での避難生活にある程度慣れやすいとウクライナでも考えられているのかもしれない。

・いずれにせよこの4ヶ月で一気に娘が増えた。今週末から私の街で始まった「善意の架け橋」というテーマの日本ポーランド交流絵画展。開会式にみんなを呼んだのだが、彼女たちは私に絵をプレゼントしてくれた。先日、夏休みで時間を持て余している彼女たちにキャンバスをいくつかプレゼントした。ひとつ数百円の安いものだ。それがお金では計れない価値となって私に戻ってきた。上の娘は日本語でサインまで書いてくれた。私はお返しにキャンバスをさらに10部プレゼント。
・私の尊敬するポーランド人に社会活動家でポーランド孤児として来日した経験もあるイェジ・ストゥシャウコフスキがいる。彼は「1000人の子ども達の父」と呼ばれていて、戦前はずっと私が日本ポーランド関係で研究してきた人物だ。そんな存在に支えられて今の私があるわけで、ある意味子どもたちの支援をしながら「父親としての当然の義務」を自然と感じてしまう。だって彼ら、誰もお父さんと一緒に避難してきているわけじゃないから。

7月24日

・ウクライナの友人オルガから連絡あり戦争が始まってからずっと前線で戦っている兄が数日間自宅に帰宅し、休養する時間を与えられたとのことで、今週末急遽オルガもウクライナ入りすることに。しばらく入院していて、先日退院したばかり。本来はあと1か月家で安静にしていなければならないが、それでもすぐウクライナ入りする理由は、もちろん数カ月ぶりに兄に会うため。
・私はオルガにとっては家にいるよりも、ウクライナに行って兄に会った方が病状もよくなるのではないかと正直思う。急ぎだったのでとにかく発電機や医療パック、そして準備がとともっているパソコンなどを詰め込んだ。

その兄は私も一緒にウクライナ入りするようにと言っていたが、今回は急すぎたので私はオルガと彼女の家族だけを送り出した。

ウクライナの友人から送られてきた写真。戦場の子どもたちへ、世界への窓をプレゼント。
このプロジェクトが終わるのはパソコンが届いた時ではない。むしろここが始まりである。プロジェクトが完了するのは子ども達がパソコンを使って学び、そして夢を叶え、ウクライナを復興させた時。だからこれからも末永く彼らの未来を見守り支えていきたい。

7月25日

ウクライナの避難所で避難生活を送っている子供たちに届いたパソコン。購入し、日章旗などをつけたものから送り出しており、現在もポーランドにある我が家にはまだ段ボールに入っているパソコンが何台もあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です