大暑
念力のゆるめば死ぬる大暑かな 村上 鬼城
二十四節気の一つ「大暑」は文字通り、夏の最も暑い日という意味で、今年は7月23日に当たります。
この句は村上鬼城の有名な句です。大正時代に詠まれたのですが、念力をかけていないと死んでしまうほどの暑い日だと言った句に共感する人が多かったのでしょう。
当時は冷房が完備していなかったので、暑さを凌ぐためにさまざまな工夫がされていました。日本家屋では夏になると襖をはずして簾を掛け、風通しを良くしました。庭に水を撒いたり、風鈴を下げて涼を演出したりして過ごしていたのです。
現代では家庭にもオフィスにも電車の中にも冷房が入っているので、凌ぎやすくなりました。けれども地球の温暖化で気温が異常に上昇して、熱中症に罹る恐れが出てきました。戸外のスポーツや仕事に熱中するあまり、暑さ対策を忘れていると危険です。その意味で、この句のもたらす緊張感に改めて共感できると思います。
泉
真裸の水の湧きくる泉かな 本井 英
泉は地下水が地層の裂け目から湧き出てきたもので、そこに涼しさを感じるところから夏の季語になっています。
野山を歩いていて、思いがけず湧き水を見つけたときは嬉しいものですね。水源のあたりでは水面がすこしふくらんでいて、そこから新しい水が湧き出ていることが分かります。
この句ではその新しい水を「真裸」と表現したところが独特です。人間が何も纏っていないことを真裸と言いますが、水が真裸だというのは、汚れていない、混じり気のない水という意味でしょう。正真正銘、地表に表われたばかりの地下水だということを強調しているのです。
この「真裸」によって、手のひらで泉の水を掬っている人間も、衣服をまとう以前の、原初の人間をイメージさせる効果が生まれました。時空を超えた水と人との関係を詠出した句と言えるでしょう。
向日葵
向日葵四五花卓へ投ぐ猟の獲物のごと 中村 草田男
最近は小ぶりの向日葵が花屋さんに出回っていて、野生の大きな花を咲かせる向日葵を見つけにくくなりました。でも田園地帯に行くと昔ながらの、人の背よりも高い、大きな向日葵に出会えますね。
この句はその大きな向日葵が四本か五本、食卓の上に寝かしてある光景を詠んでいます。これから大きな壺に活けるところなのでしょう。その向日葵を動物のようだと捉えていて驚かされます。
確かに向日葵の茎は太くて毛が生えていて、花の部分は顔に見えますから、この比喩に納得できます。でも単に動物のようだとは言わず、猟銃で仕留めた獲物だと表現したところが凝っています。狩猟民族の食卓までも想像させるからです。
作者は西洋の芸術にも精通していました。向日葵の強烈な存在感を描いた西洋の名画が、イメージのどこかにあって、生まれた句かもしれません。