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第23号/端午、幟、熊谷草

投稿日:2020年6月26日 更新日:

文/石地 まゆみ

端午

端午過ぎ頑張らなくていい柱  山元 志津香

 五月五日は端午の節供と言いますね。「端」は初めという意味なので、「端午」は月の始めの午(うま)の日のことをいう言葉です。ですから元々中国では五月以外の月にも使われていたようです。五月に限られるようになったのは漢代から。中国では奇数が重なる日を幸多い日と考えていましたから、三月三日は「重三」、五月五日は「重五」と呼ばれて大切な節句となったのです。

 家々の軒に菖蒲(しょうぶ)を挿し、菖蒲湯を焚いて入る、という行事は、山姥に追われた子どもが菖蒲に隠れて難を逃れた、蛇の化身と契った美女が菖蒲湯に入って免れた、という伝説があるようで、昔から菖蒲には邪気を払い悪霊を退散させる力がある、また葉が剣のような形で力があると信じられていたからの習俗です。
 五月は「悪月(あくげつ)」と言われているのですが、旧暦の五月は田植えが始まる時期であり、神を迎えるための物忌み(行動や食事を慎み、けがれを除くこと)をする月でした。女性は早乙女として重要な役目を負い、巫女的な立場でもあり、神を迎えるためにお籠りをしたのです。それを「女の家」「女の夜」という特に関西の習俗もあったのだそうです。今では男の子の節句となっているのは、不思議ですね。どうやら平安時代に、近衛府で騎射(うまゆみ)を行うようになり、鎌倉時代には菖蒲が「尚武」(武事・軍事を重んずること)に通じるということから武士の間で盛んになって、江戸時代になると兜を飾り、益々勇ましい男子中心の節句へと変わっていったようです。

撮影/石地 まゆみ

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端午の節句の武具飾り。人形町の三光稲荷の拝殿にて。

 この日はもちろん「こどもの日」ですが、実は昭和23年に制定された「国民の祝日に関する法律」には「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日だと書かれています。「母に感謝する」という言葉が、なんとなく「女の家」を思わせるではありませんか。

 子どもが元気で大きく育つように。そんな願いが、「背比べ」という唱歌になったのでしょう。家の柱には、子どもたちの成長を表す線の傷が残されています。「背比べ」という行事は古い記録には見られないようですが、この歌によって、すっかり端午の日らしいものとなりました。毎年「去年よりもこれだけ伸びた」と、線を付けられた柱。それは、親としても愛おしい、大切な我が子の成長の証です。今はすっかり大人になって、背比べをすることもなくなりました。端午の日が過ぎて、ふと懐かしい柱の線を見つけた作者。毎年線を付けられても黙って子どもの成長を一緒に見守ってくれていた柱です。もう、頑張らなくていい、という言葉は、巣立った子どもへの一抹の寂しさでもあるのでしょう。

   バルーンの赤さの戦ぐ端午かな  まゆみ

撮影/石地 まゆみ

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金太郎も端午の節句の人形や絵によく使われる題材だ。元気で力が強く、親に孝行したという。
右は「子寶五節遊・端午」で、幟を立て、菖蒲で地面を叩く遊びをする子どもが描かれる。
(どちらも鳥居清長筆・東京国立博物館蔵)

武者幟群山も威を競ひけり  福田 蓼汀

 端午の節句といえば「鯉幟」。俳句では「幟」というだけで、五月幟を指します。「端午」の項の「背比べ」と同様、「こいのぼり」の歌は、だれでもが口ずさんだことのある歌でしょう。江戸時代、武士がこの日を「尚武の日」として、旗指物(武将が戦場で目印として背中にさした小旗)など、武家飾りを門口に立てていました。「吹き流し」も、元々は戦場で用いたものです。端午の節句に武具や薙刀、武者人形、幟を立てたのは、虫干しを兼ねていたともいいます。たびたび町触れの御禁制があって、人形の方は廃れていったようで、幟だけが外に飾られるようになったようです。幟には、絵師によって男子の成長を祈願する絵画が鮮やかに描かれます。鍾馗さんや義経など、力強い絵柄が多く、「武者絵のぼり」と呼ばれます。

撮影/石地 まゆみ

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東京都下の鶴見川育成会が何年も前から武者幟を立て、市民を喜ばせてきたが、高齢化で昨年行事は終了となった。地方では未だに武者幟が主流のところも見かける。

 町人の方はというと、江戸中期ごろからそれに対抗して、中国で滝をも登る出世の象徴である鯉を、立身出世の象徴として幟として立てたのだそう。「登龍門」という故事の、「龍門」の急流を鯉が登り切れば「龍」になるという、あの話を、町人も知っていたのでしょう。武士と町人、それぞれの心意気、といったところでしょうか。

 鯉幟の泳ぐ姿は、身近で楽しく、歌のように「お父さん」「お母さん」「子どもたち」と、自分の家族を見るようです。武士ゆかりの地では、その武将を描いた武者幟ばかりを見ますが、ご当地びいき、という感じでしょう。縦長にすっと立った姿、そこに描かれた勇壮な武者の姿が、襟を正してくれます。武者の勢いのような、ごつごつとした群山がその周りを取り巻いています。山々も、描かれた武者に対して、威儀を整えて、対峙しているのです。

   蒼天に鬨突き刺さる武者幟  まゆみ

撮影/石地 まゆみ

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おなじみの鯉幟。都心では各家庭で上げることが少なくなり、それを集めて、川で何匹も連ねるイベントが見られるようになった。

熊谷草

熊谷草絆創膏にほのと赤  寺澤 佐和子

 クマガイソウ。あまり、聞いたことも見たこともない植物かもしれません。絶滅危惧種に指定されているのですが、その花の姿と由来には、心惹かれるものがあります。
 ラン科の花で、森林や竹林に生え、群生します。大きな扇形の葉を2枚、向かい合って広げ、まるで緑の大皿のよう。その葉だけでも印象的ですが、その中心からすっと伸びた茎につく花は、唇のようなふくらんだ袋状で縁が内側に巻き込まれています。その大きさは10センチくらい。淡い紅色でぷっとふくれた姿は、とてもユニークです。

 源平の戦いのとき、一の谷の合戦で敗れたまだ若い平敦盛の首を泣く泣く討ち取ったのが源氏の武将・熊谷直実。敦盛は直実の息子と同じような年頃だったといいます。この話は、能や歌舞伎でも演じられているので、ご存知の方も多いかもしれません。
 熊谷草の名は、直実が背負った母衣(ほろ)に見立てたもの。母衣とは、武士の道具の一つで、矢を防ぐために背中に付けていた、風船のような布の袋のことを言います。あまり気づかないかもしれませんが、合戦図にはよく描かれています。

撮影/石地 まゆみ

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歌川広重の「熊谷敦盛組討」。波打ち際で敦盛を組み敷く直実。直実の背にある白い袋状のものが母衣だ(東京国立博物館蔵)。

 作者は、淡い紅色の熊谷草に刷くように流れる紅紫色の筋を、敦盛の血のように感じたのでしょう。ふと気づくと、出掛ける前に傷つけてしまった自分の指に巻いた絆創膏には、うっすらと、血がにじんでいます。そのほんの少しの赤いにじみを見たとたん、もう血は止まったと思っていたのに…と、痛みが戻ってきたように感じます。それらを重ね合わせた、情感と体感のある句となりました。
 ちなみに、同じ種の、敦盛草という花もあって、こちらは熊谷草よりも小ぶりで、紅色がもう少し強い花です。

   母衣朽ちて絵巻終はりぬ熊谷草  まゆみ

撮影/石地 まゆみ

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熊谷草は花の形も葉もユニークで、一度見たら忘れられない。

石地 まゆみ先生のプロフィールや著作については、こちらをご覧ください。

※写真や文章を転載される場合は、お手数ですが、お問い合わせフォームから三和書籍までご連絡ください。

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