季語でつなぐ日々

第6号/大暑、泉、向日葵

投稿日:2017年7月21日 更新日:

大暑

念力のゆるめば死ぬる大暑かな  村上 鬼城

 二十四節気の一つ「大暑」は文字通り、夏の最も暑い日という意味で、今年は7月23日に当たります。

 この句は村上鬼城の有名な句です。大正時代に詠まれたのですが、念力をかけていないと死んでしまうほどの暑い日だと言った句に共感する人が多かったのでしょう。

 当時は冷房が完備していなかったので、暑さを凌ぐためにさまざまな工夫がされていました。日本家屋では夏になると襖をはずして簾を掛け、風通しを良くしました。庭に水を撒いたり、風鈴を下げて涼を演出したりして過ごしていたのです。

 現代では家庭にもオフィスにも電車の中にも冷房が入っているので、凌ぎやすくなりました。けれども地球の温暖化で気温が異常に上昇して、熱中症に罹る恐れが出てきました。戸外のスポーツや仕事に熱中するあまり、暑さ対策を忘れていると危険です。その意味で、この句のもたらす緊張感に改めて共感できると思います。

真裸の水の湧きくる泉かな  本井 英

 泉は地下水が地層の裂け目から湧き出てきたもので、そこに涼しさを感じるところから夏の季語になっています。

 野山を歩いていて、思いがけず湧き水を見つけたときは嬉しいものですね。水源のあたりでは水面がすこしふくらんでいて、そこから新しい水が湧き出ていることが分かります。

 この句ではその新しい水を「真裸」と表現したところが独特です。人間が何も纏っていないことを真裸と言いますが、水が真裸だというのは、汚れていない、混じり気のない水という意味でしょう。正真正銘、地表に表われたばかりの地下水だということを強調しているのです。

 この「真裸」によって、手のひらで泉の水を掬っている人間も、衣服をまとう以前の、原初の人間をイメージさせる効果が生まれました。時空を超えた水と人との関係を詠出した句と言えるでしょう。

向日葵

向日葵四五花卓へ投ぐ猟の獲物のごと  中村 草田男

 最近は小ぶりの向日葵が花屋さんに出回っていて、野生の大きな花を咲かせる向日葵を見つけにくくなりました。でも田園地帯に行くと昔ながらの、人の背よりも高い、大きな向日葵に出会えますね。

 この句はその大きな向日葵が四本か五本、食卓の上に寝かしてある光景を詠んでいます。これから大きな壺に活けるところなのでしょう。その向日葵を動物のようだと捉えていて驚かされます。

 確かに向日葵の茎は太くて毛が生えていて、花の部分は顔に見えますから、この比喩に納得できます。でも単に動物のようだとは言わず、猟銃で仕留めた獲物だと表現したところが凝っています。狩猟民族の食卓までも想像させるからです。

 作者は西洋の芸術にも精通していました。向日葵の強烈な存在感を描いた西洋の名画が、イメージのどこかにあって、生まれた句かもしれません。

藤田直子先生のプロフィールや著作については、こちらをご覧ください。

-季語でつなぐ日々

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

関連記事

第37号/十一月、初時雨、冬桜

十一月 バーバリーが闊歩十一月の街  高原 沙羅   バーバリーと言えば、らくだ色・赤・黒・白の直線のデザインのトレンチコートが有名です。その柄のコートを着て、11月の街を颯爽と歩いてきた人がいたので …

第20号/雨水、囀、蕗の薹

雨水 低く出づ雨水の月のたまご色  岸 さなえ  二十四節気の一つ雨水は「うすい」と読みます。立春が過ぎて厳しい寒さが遠のき、空から降るものが雪から雨になり、氷が溶けて水になる頃という意味で、今年は2 …

第11号/寒露、夜食、黄落

寒露 投網打つ男翳濃き寒露かな  竹村 完二  寒露は露が寒さで凝結して氷るようになるという意味の二十四節気ですが、実際に霜が降りるのはもう少し先です。  空気が少しひんやりと感じ始めて、空も水も透明 …

第22号/春分、木の芽、桜

春分 春分の田の涯にある雪の寺  皆川 盤水  春分も二十四節気の一つです。太陽が春分点を通過する時刻が春分ですが、その時刻がある日を暦で春分と呼んでいます。今年は3月21日でした。この日はお彼岸の中 …

第23号/清明、燕、馬酔木の花

清明 清明やきらりきらりと遠き鍬  大橋 弘子   清明は「清浄明潔」の略です。その文字の通り、空気が澄んで陽光が明るく、万物を鮮やかに照らしだすという意味の二十四節気です。この時期になると、萌え出た …