『ウィトゲンシュタインとレヴィナス』が書評で紹介されました。
掲載誌:『イギリス理想主義研究年報』 第14号 2018(日本イギリス理想主義学会)
ボブ・ブラント『ウィトゲンシュタインとレヴィナス
倫理的・宗教的思想』来澤克夫監訳、三和書房、2017 年)
伊藤潔志
本書は、Bob Plant, Wittgenstein and Levinas: Ethical and Religious Thought, Routledge, 2005. の全訳である。著者がイギリスのアバディーン大学に提出した学位論文の修正・縮約版であるが、446頁(原著で308頁)という大著である。翻訳は、監訳者の米澤克夫氏を始め、六名の研究者の手による。
我が国においてウィトゲンシュタインは、「人気」の哲学者と言ってよいだろう。これまで数多くの研究書や翻訳書が出版され、膨大な数の論文が生産されてきた。しかし、ウィトゲンシュタインの一般的なイメージと言えば、「分析哲学あるいは言語哲学に決定的な影響を与えた哲学者」といったところだろう。もちろん、そうした印象も間違いではないし、それだけでも「20 世紀最大の哲学者」と呼ぶに相応しい歴史的な偉業である。
しかし、ウィトゲンシュタインの哲学には、それにとどまらない深遠さ、「分析哲学」というイメージとは相容れない思想が含まれているのも事実である。それは倫理、そしてとりわけ宗教の問題である。ウィトゲンシュタインの宗教に対する深い関心は弟子たちの証言によって裏づけられており、欧米では早くからウィトゲンシュタインの哲学に宗教的な意味を見出そうとする研究がなされてきた。しかし我が国においては、ウィトゲンシュタイン自体は熱心に研究されるものの、ウィトゲンシュタインと宗教との関係について注意が払われることは稀だった。
そうした中で「例外的」とも言える研究者の一人が、監訳者の米澤氏である。米澤氏は、これまで、ウィトゲンシュタイン哲学における倫理・宗教の問題に注目し、精力的に論じてきた(本学会の研究年報にもそういった関心から著された論文が寄稿されているので、参照されたい)。その米澤氏が注目したであろう本書の「倫理的・宗教的思想」という副題は、同じくウィトゲンシュタインの宗教理解に関心を寄せる筆者にとっても、きわめて興味深いものであった。
しかし、副題以上に興味をそそられるのが、表題の「ウィトゲンシュタインとレヴィナス」という「組み合わせ」である。世界中で研究されているウィトゲンシュタインではあるが、レヴィナスとの関係が主題的に論じられたことは、米澤氏も指摘しているように、おそらくこれまでなかったであろう。本書で、ウィトゲンシュタインとレヴィナスとの関係が、どのように料理されているのか。そこで倫理と宗教とは、どのような役割を果たしているのか。期待と疑問は尽きないが、次に本書の構成を確認してみよう。
序論
第1章 平穏の思想:ピュロン主義とウィトゲンシュタインにおける治癒としての哲学
まえがき/信念の放棄:ピュロン主義的自然主義/社会的カメレオン:ピュロン主義の倫理的・政治的意味/ウィトゲンシュタインの文法的治癒と病の源泉/世界を正しく見ること:ウィトゲンシュタインのレトリック/ウィトゲンシュタインとピュロン主義的保守主義
第2章 世界像を信頼すること: 『確実性の問題』以後の知識、信念、倫理
まえがき/ピュロン主義との共鳴:疑い、知識、信念の無根拠性/岩と砂:根本的諸命題と冒涜/愚か者と異教者とドグマティズム:宗教的原理主義の問題/説得と回収と他者を判断すること:『確実性の問題』の倫理的・政治的意味
第3章 多元主義、正義、傷つきやすさ:ウィトゲンシュタインの政治化
まえがき/政治、宗教、多元主義のレトリック/全体主義とリオタールの不一致の政治学/身体、魂、苦しみ、無道徳主義の妖怪/原始的なものと近代的なもの:フレーザーの『金枝篇』へのウィトゲンシュタインの批評/リオタールの多神教的正義の再考
第4章 幕間:争いよりも平和を好む
第5章 報いなき悲惨さ:宗教、倫理、罪悪感(責め)についてのウィトゲンシュタインの見解
まえがき/信念の帰結:ウィトゲンシュタインの躊躇の解釈/霊魂の不滅と倫理的責任/罪、悲惨さ、悪しき良心/罪悪感(責め)、審判、ドストエフスキーの命法:報いなき宗教
第6章 侵犯すること:ハイデッガーとレヴィナスにおける責めと犠牲、および日常的生
まえがき/ハイデッガーの『存在と時間』における良心と責め/レヴィナスの亡霊:審判することと存在することとの暴力/責めと顔の文法/告白:責めの単独性と日常的経験
第7章 倫理学の非合理性:レヴィナスと責任の限界
まえがき/第三者のために神に感謝すること:政治的なものに取り憑かれること/レヴィナスの祈り/倫理の非合理性/犬の吠え声:動物(としての)他者/動物性
第8章 汚染:レヴィナス、ウィトゲンシュタイン、デリダ
まえがき/幽霊屋敷:レヴィナスの住まいの現象学/歓待の危険性/反復不可能性の法から告白的なものへ/懐疑論、信頼、暴力/不可能なものについて(決断すること)/永続的な信仰
全体の要約
本書は全体として、第4章を挟んで二つに分けることができる。第1章から第3章ではウィトゲンシュタインの多様性の思想が論じられ、第5章以降ではウィトゲンシュタインの倫理・宗教的思想を出発点にレヴィナスにおける倫理的責任の問題が論じられている。目次からも分かるように、ハイデガーやデリダなど多くの(それも幅広い領域の)哲学者の著作が参照されている。
本書では、まず後期ウィトゲンシュタインの治癒的着想が論じられている。言語は思考を本質へと向かわせるが、この本質への強迫観念を治癒させるのが多様性の承認である。この多様性の思想は「言語ゲーム」や「世界像」といった術語から導かれるが、保守主義あるいは相対主義ではない。なぜなら、多様性の前提である他者との「差異」の根底には「人間共通の行動様式」があり、「差異」を成立させる基盤となっているからである。これを著者は「最小限の自然主義」と呼び、他者との「差異」をどう埋めるかという倫理的・政治的な問題に結びつくとしている。
こうした議論を通して著者は、ウィトゲンシュタインの宗教理解は相対主義的な信仰主義ではないとしている。そして、ウィトゲンシュタインにおける倫理と宗教との関係からレヴィナスの倫理・宗教的思想へと議論を展開させていく。ウィトゲンシュタインにおいて倫理と宗教とは密接に結びついているが、著者はそれを「宗教性の倫理化」と呼んでいる。ただしウィトゲンシュタインは、それを明言していない。そこで著者は、レヴィナスを手がかりに考察を進めようとするのだが、さらにレヴィナスの倫理学をウィトゲンシュタインの「最小限の自然主義」を手がかりに修正しようともしている。
こうして見ると本書は、レヴィナスを補助線にウィトゲンシュタインを再解釈すると同時にウィトゲンシュタインを基にレヴィナスを論じるという、二正面での議論を行っている。それは、著者の言葉を借りるならば「レヴィナスとウィトゲンシュタインを相互批判的に交渉させることによって、彼らの各々の哲学的構想を近づける」試みである。その意味で本書は、ウィトゲンシュタイン研究のみならず、レヴィナス研究にも一石を投じるものである。
先に述べたように、我が国のウィトゲンシュタイン研究において、倫理・宗教の問題は看過されてきたと言っても過言ではない。そうした中、本書によってウィトゲンシュタインにおける倫理・宗教の問題に関する研究に新たな道標が加わったことは、きわめて意義深い。米澤氏を始め訳者の方々に敬意を表するとともに、心より感謝を申し上げたい。
(桃山学院大学)